「マンション問題に詳しい不動産コンサルタントの長嶋修氏は『欧州連合(EU)諸国や米国、オーストラリアでは、自治体がマンションの建設を規制する権限を持っている』と指摘。その上で、『福岡のみならず、全国的にマンションの建設が相次いでおり、トラブルも増えるだろう。時代に即した法整備が必要だ』と話している」--。
5月24日の西日本新聞1面トップを飾った記事(下記参照)の最後に、こんなことが書いてありました。
おそらく、この記事のポイントはここに凝縮されているのだろうと思います。
文京区に置き換えても、まさにそうだからです。
マンションの建設が相次いでいる状況も同じ。建築紛争やトラブルが増えているのも同じ(※従来から多発しているという見方もあります)。条例や要綱も含め、時代に則した法整備が必要である点も同じです。
特に、文京区の場合、まちづくりに関しては、30年以上も前に作られた「まちづくり推進要綱」等があるだけで、「まちづくり基本条例」はありません。
「文京区ワンルームマンション等の建築及び管理に関する条例」や「中高層建築物の建築に係る紛争の予防と調整及び開発事業の周知に関する条例「ワンルームマンション条例」はありますが、区民から見れば「時代に即した」とは言い難い内容であり、実効性に乏しいように映ります。
なぜ、そうなのかと言えば、行政が「デベロッパー目線」で見て、条例・要綱を作っているからに他なりません。
「区民目線」で考えれば枚挙に暇が無いほど改正点が出て来るはずですが、文京区が重たい腰を上げようとしないのは、行政が「デベロッパー目線」で見ている証左でしょう。
西日本新聞の記事は「あなたの特命取材班」の特集記事でしたが、次は、「なぜ日本の自治体はマンション建設を規制する法整備に及び腰なのか?」について掘り下げて貰いたいと思います。
(2019年5月27日)
文京区政に足りないもの、そして次の4年間を見通した場合、区長に欠かせない重要な視点--。
それは「メタ知識」であり、それをいかに自治体経営に取り入れていけるかが、文京区政の将来を占う重要なカギとなることでしょう。
なぜ、わたしが敢えて「メタ知識」に言及したかについて、ピン!ときた方も多いかもしれません。
文京区に本拠を構える東京大学の学部入学式の祝辞で、上野千鶴子氏が締めくくりの言葉として触れたからです。
「大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身につけることだとわたしは確信しています」
「知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ」--。
「メタ知識」を身につけることの重要性は学生に限りません。
自治体の首長もまた、「メタ知識」を身につけていなければ、これからの激動の社会・経済環境を乗り切る自治体経営などできないのです。
「SDGs」も「Society5.0」も所詮は”借り物”…。
それらをいくら捏ねくり回してみても、本質的な解決に至ることはないでしょう。
上野氏の言葉を借りれば、自治体経営は「これまでのセオリーがあてはまらない、予測不可能な未知の世界」、「正解のない問いに満ちた世界」であり、「新しい価値」(わたしはそれを新しい政策となぞらえていますが…)とは、様々な信条や主義主張、価値観の対立や摩擦を通じて「生まれるからです」。
一方、区議も執行機関の監視機能を研ぎ澄ますためにも、当然ながら「メタ知識」を身につける必要があることは言うまでもありません。
(2019年4月20日)
「今の暮らしの先に明るい未来が見えない」--。
これは千石4丁目に住むわたしの率直な心情です。
簡易宿所(カプセルホテル)の建設計画地は更地のまま、新たな事業者が再びホテルを建てようとするかもしれません。
「文京区旅館業の営業適正化に関する指導要綱」を巡って、わたしたちは指導強化を求めたはずが、知らないうちに要綱の内容が”骨抜き”にされたような条例(文京区旅館業に係る計画及び適正な管理運営に関する条例)になってしまいました。
そのうえ「泣きっ面に蜂」のように、カプセルホテル建設計画地の隣接地では、外資系企業による地下1階・地上4階建ての「ワンルームマンション」建設計画が持ち上がり、文京区の「ワンルーム条例」や「中高層条例」の適用外ということで、閑静な住宅地の住環境が次々と蝕まれようとしているのです。
小日向2丁目の区民の方々も同じではないでしょうか。
突如として、地上4階建ての「巨大ワンルームマンション」の建設計画が持ち上がり、反対運動が起きている中で、どうして「暮らしの先に未来が見える」なんて言えるのか、強い違和感を禁じえません。
少なくともわたしが住む千石4丁目は、「歴史と文化と緑に育まれた、みんなが主役のまち”文の京”」など「夢のまた夢」であって、地域の価値は狭められ、貶められていっているとしか思えない状況のなか、暗澹とした気持ちしか抱けないのです。
それもこれも、歴史と文化と緑に育まれた、みんなが主役のまち”文の京”を将来都市像とする「文京区基本構想」に致命的な問題があるにもかかわらず、それを見直さず放置してきたところに原因があったわけですが、今なお、それを認めようとせず、突き進んでいこうとしています。
だれが「文の京」の価値を下げているのか--。
「過ちて改めざる是を過ちという」という言葉がありますが、見直すべきは見直して、わたしたちの暮らしの先にささやかでも希望の未来が見えるようにしてほしいものです。
(2019年4月19日)
公園横に設置された「選挙ポスター掲示板」を巡り、子どもが出合い頭の事故に遭う危険性に対し、文京区の選挙管理委員会が「すでにポスターが貼られた掲示板であり移動しない」と決めたことに、わたしとしては依然として疑問を感じずにはいられません。
この件に関しては、「区民の声」で投稿し、昨夜、選挙管理委員会から「回答する」旨の電話を頂戴致しました。
もしかすると、「立候補者のポスターが一度貼られた掲示板は移動しては移動してはならない」などといった法律があるのかもしれません。
とは言え…です。
わたしは法律の専門家ではありませんが、万が一、事故が起きて裁判になった場合(事故が起きないことを祈るばかりですが…)、文京区側の主張が通るとは思えないのです。
なぜなら、事故は予見可能であり、しかも地元区民から「危険である」との指摘があり、それを文京区と警察署に伝えたからです。
つまり文京区としては、子どもが事故に遭う危険性を把握しながら、回避措置を取らなかったということになります。
もちろん、この場合、回避措置を取らない(あるいは取れない)、合理的根拠があれば文京区側の主張が通るかもしれませんが、かけがえのない子どもの命を上回るほどの(掲示板を移動しないという)合理的根拠があるのでしょうか。
ちなみに警察署からは、「パトロールを強化します」との回答を受けています。
4年後の選挙の際には、「選挙ポスター掲示板」の設置場所については、あらゆる角度から安全性を検討し、区民が案じることのないようにしてほしいと思います。
(2019年4月18日)
昨日の続きですが、文京区の選挙管理委員会は今回の件について、「公職選挙法に違反しているわけではないから、『選挙ポスター掲示板』は移動しない」としているようです。
しかし、私はいち文京区民として、この姿勢には極めて強い疑問を感じています。
この公園の地元区民の方もそうだったと思いますが、公選法に違反しているとか、違反していないとか、そんなことを言っているわけではないのです。
あの場所に「掲示板」があると、見通しが悪くなり、「子どもが事故に遭う危険性が高いから、横にずらして設置してください」と、区民の安心・安全の立場から指摘しているのです。
わたしは、「公選法に違反していないから何もしない」ではなく、「公選法に違反していなくても、区民の安全・安心のためにすべきことは全力で取り組む」というのが、あるべく区政の姿だと考えています。
文京区の職員行動指針に「チーム文京スピリット」というものがあります。
そこには、”バラ色”の指針が並べられていますが、今回の文京区の対応は「区民一人ひとりの思いを真摯に受け止め」ているとは言えず、「区民一人ひとりの思いに全力で応えます」とは全く言い難い”言い訳”と言えるでしょう。
「チーム文京スピリット」では、「様々なケースに臨機応変に対応します。そのことにより、区政に対する区民の安心感・信頼感を高めます」とも書いてありますが、文京区の対応は、この職員行動指針とは真逆の対応としか思えません。
これでは、文京区民が「住んでいて良かった」「住み続けたい」と思えるわけがなく、他の区市の市民が「住んでみたい」と心から思えるような文京区が実現するとは考えられません。
「公職選挙法に違反しているわけではないから、『選挙ポスター掲示板』は移動しない」という文京区の対応は、文京区の「価値」を上げるどころか、逆に下げているとしか、わたしには思えないのです。
(2019年4月17日)
昨日、ある公園でわたしのところに駆け寄って来た区民の方が、このブログを読んでいるかどうか分かりません。
しかし、昨日このブログでお伝えした、「選挙ポスター掲示板」が、一方通行を走る車と、公園から出ようとする子どもの視界を遮り、出合い頭の事故を誘発する危険性について、わたしは選挙管理委員会に指摘し、設置場所を変更するように求めました。(※選管には具体的な公園名を伝えています)
わたしの選挙スタッフは所轄の警察署に連絡し、「掲示板」により見通しが悪くなり、公園を飛び出した子どもが、一方通行を走る車とぶつかってしまう危険があることを伝え、警察署を通じて区のほうに設置場所変更を働きかけてもらうようにしました。(※警察署にも具体的な公園名を伝えてあります)
投開票日まで今日を入れて、あと6日あります。
子どもの命が本当に尊く、文京区が本当に区民を大切にしているのであれば、すぐに設置場所を変えるべきですし、変更しなければなりません。
文京区が、本当に文京区を「だれもが住み続けたい・住みたくなる快適で魅力的なまち」にしたいのであれば、すぐに対策を講じるべきでしょう。
このブログを通じて区長にお伝えしておきますが、公園の地元区民から指摘があり、わたしはそれを文京区選挙管理委員会と警察署に伝えました。
もし、万が一事故が起きてしまったなら、事故の危険性の指摘を受けていながら必要な対策を迅速に講じなかった区及び区長の責任は極めて重大であることを理解すべきです。
文京区が区民の安心・安全を第一に考えるというのであれば、この公園横の「選挙ポスター掲示板」をすぐに別の場所に移すべきです。
(2019年4月16日)
「実際に子どもが事故に遭わないと区は対応してくれないのか!」
昨日、わたしはある公園に立ち寄った際、地元区民の方からこんな叱責を受けました。
実は、この公園の南側に、公園の柵に沿って「選挙ポスター掲示板」が設置されたのです。
公園南側の前の道路は一方通行なので、西から東へ車が走っていきます。
「選挙ポスター掲示板」のすぐ横(東側)には公園の出入り口があって、子どもが勢いよく飛び出すことも少なくありません。
こういう状況において、「掲示板」があるのとないので、どういう状況の変化が生じるか?というのが、地元区民の方の指摘でした。
「掲示板」がない状態であれば、車の運転者も公園が見通せるため、子どもが出入り口から出ようとしているか、歩いて出ようとしているのか、走って出ようとしているのかも、視界に飛び込んで来るわけです。
子どもの方も同じです。
公園の柵越しに、道路の状況が容易に見通せるので、自動車が走って来ようとしているかどうかがよく見えます。
しかし、「選挙ポスター掲示板」が設置されたために、運転者側からも、公園内の子どもからも、「掲示板」に遮られてお互いの状況が全く見通せなくなってしまったのです。
「どうしてこんな場所に設置したのか?」
「他に場所がないわけではなく、もっとずらして、出入り口の東側(現在は西側)に設置すれば、こうした問題は避けられるのに、どうしてそうしないのか!」と怒りが収まらない様子でした。
わたしも、実際に現地を見て、区民の方の心配が手に取るように分かりました。
車が通るかどうか、「掲示板」で遮られて全く見通せないだけに、子どもが飛び出したら明らかに事故になる--。
一刻も早くなんとかしないと……と思いました。
(2019年4月15日)
「政治と宗教はお断り!」「政治と宗教を持ち込まないでほしい」--。
選挙になると、こうした発言をあちらこちらで聞くようになります。
しかし、そもそも「政治」と「宗教」をこうして一括りにしていいものかどうか疑問ですし、「政治」とは本来的にそういうものなのでしょうか?
そんな疑問を抱いていたら、「AERA dot.」の記事に出会いました。
タイトルは、「『票ハラ』、政治と距離置く女性有権者の意識…女性候補者に立ちはだかる壁」(2019年4月15日号より抜粋)
そこにはこう書いてありました。
「女性の有権者が政治を敬遠する気持ちも、壁として立ちはだかる」
「地方選挙は現職の力が強く、新人、しかも無所属の候補者にとっては、これまで選挙に関心のなかった人に応援してもらうことが当選の鍵を握る」
「だが森田さんは、女性の知人に選挙に出ることを伝えた際、相手がよそよそしくなったり、相手との溝を感じたりしたことがあった」
「その後はママ友などプライベートな知り合いには立候補のことを伝えられないでいる」
「政治や選挙の話題を嫌がる女性は少なくなくて、選挙に出ると言うだけで距離を置かれてしまう」
「女性の声を議会に届けるためには、もっと女性自身が本気になって女性候補を増やそうと思わないと難しいのではないでしょうか。私じゃなくてもいい。女性候補者たちに力を貸してほしいなって思うんです」--。
おそらく、こうしたことは全国各地で普通に起きていることなのではないでしょうか。
「AERA dot.」の記事では、学識経験者と政治家の2人のコメントが載っていました。
駒澤大学の大山礼子教授(政治制度論)・・・「地方議会は特殊な人たちの指定席になってしまっていて、選挙に出るというと、その仲間に入るという目で見られてしまう。政治と距離を置く人も多く、その結果、既得権者である議員たちの恩恵にあずかる人だけが投票する。選挙に関心のない住民が地域を悪くしているのです」
有村治子参議院議員・・・「政治を自分のものだと考えている有権者の方がどれほどいるでしょうか。私の代弁者を議会へ送ろう、と考えることこそが、民主主義の発展につながります」
「AERA dot.」の記事は、「女性議員を増やすには、有権者が変わることも肝心なのだ」と締めくくっていましたが、住環境を守ること、まちづくりを進めることも含めて、全て「有権者自身が変わることも肝心」であると思わざるを得ません。
(2019年4月9日)
福井新聞社デジタルラボが行っている福井県知事選ツイッターアンケート(第13回)で、「あなたの1票で政治は変わると思いますか」と聞いたところ、「変わる」と「少しは変わる」を合わせて59%に達したそうです。
これに対し、「あまり変わらない」と「変わらない」の合計は41%だったそうですから、「選挙や政治への期待感はまだまだ捨てたものではない」(福井新聞社デジタルラボ)と見ています。
文京区議会議員選挙でも同じことが言えるでしょうか?
わたしは、区民が「あなたの1票で政治は変わると思う」のであれば、「あなたの1票で文京区の『まちづくり』も変わる」と言いたいと思います。
社会・経済環境が激変するなか、わたしたちの住環境・生活環境・子育て環境を維持し、守ることはこれまで以上に難しくなっています。
みどり豊かで閑静な住宅地の住環境を守り抜くためにも、「あなたの1票」がとても大切になると言えるのではないでしょうか。
(2019年4月4日)
”パンドラの箱”というと、神話の由来から、余り良いイメージはないかもしれません。
ゼウスがパンドラに持たせた箱(神話では壺)を、彼女は地上に着いたとき、好奇心から開けてしまった…という話です。
実は、箱にはあらゆる災いが詰まっており、 すべての災いが地上に飛び出し、慌ててふたをしたので箱の中には「希望」だけが残ったといいいます。
そこから、「パンドラの箱」とは、「触れてはいけないタブー」「開けると何か災いが起こるかもしれないこと」のたとえとして使われるようになりました。
しかし、一般区民にとって必ずしも透明性高いとは言えない区政や区議会が、ある種の”パンドラの箱”(ブラックボックスという人もいます)のように映っているとしたらどうでしょうか?
誰かが、この”箱”を開けて、区民の前にすべてを明らかにしてほしいと思うのではないでしょうか。
わたしが敢えて”パンドラの箱”を持ち出してきたのは、一般区民にとって「理解不能なこと」「不可解なこと」「それはおかしいのではないか?」といったすべてを白日の下にさらし、「希望」だけを区政と区議会に残すべきだろうと思うからにほかなりません。
誰も開けようとしないなら、わたしが開けるしかない--。
みなさんはどう思われるでしょうか。
(2019年3月27日)
「ゴールにたどり着くためには1000段の階段を上らなければならないとする。そのときに10段目の階段が上れないからといって、1段目を諦めてしまうのか。諦めてしまえば永久に1000段目には達しない」
「たとえ10段目の階段を上れるかどうか分からなくても、目の前の1段目を上ることに全力を尽くす。もしかすると、その後10段目をやはり上れずに結局ゴールにたどり着けないかもしれない」
「しかし、まずは目の前の1段目を上り、そして次に10段目に挑戦する。その繰り返しによってやっと1000段目にたどり着く」
「僕は毎回、目の前の階段を上ることに全力を尽くした。もっと上の方の階段で万策尽きるかもしれない。しかし目の前の階段を上らないことにはゴールには絶対にたどり着けない」
「道を拓くには行動しかない。目の前の階段を上り続けるしかない」--。
これはプレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(3月12日配信)から抜粋したPRESIDENT Online記事からのさらに抜粋となります。
しかし、この言葉は、理想とする「まちづくり」に取り組む上で、重要な示唆を与えてくれます。
理想とする「まちづくり」を1000段目とするなら、「目の前の1段目を上ることに全力を尽くす」ことが欠かせず、「その繰り返しによってやっと1000段目にたどり着く」ということだからです。
「1段目を諦めてしま」っては何ひとつ始まりませんし、「もっと上の方の階段で万策尽きるかもしれない」と案じて躊躇していたら、誰も付いて来てくれないでしょう。
理想の「まちづくり」を進めていく上で、「道を拓くには行動しかない。目の前の階段を上り続けるしかない」ということを自らに言い聞かせたいと思いました。
(2019年3月14日)
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